柏崎良寛貞心会
会長 中村 由紀子
立春も過ぎ少しずつ暖かくなってきた気配がする時節となってきました。
貞心尼の命日も近づいています。2月11日で、終いの棲家となった不求庵
で孝順尼、智譲尼に見守られ、75歳の生涯を終えられました。それまで住ん
でいた釈迦堂は、長岡の墓参で出掛けていた留守に、八木火災で類焼してし
まいました。嘉永4年の4月、貞心尼54歳の時でした。この時の様子は「
焼野のひとくさ」に書かれています。
来てみればしらぬ野原とやけはてて
立ちよるかげもなきぞかなしき
この火事で本尊も赤く焼き焦げてしまいました。しかし貞心尼は、外出する
ときはいつも良寛の遺墨を持参していたので「蓮の露」他の物が貞心尼の心遣い
によって、後世に伝えられる事となりました。釈迦堂焼失後は明蔵寺内の観音
堂に仮住まいをしていました。外護者の山田静里、関矢氏などによって不求庵
ができたのはその年の秋でした。この庵は広小路の真光寺の傍らに間口2間、
奥行3間(8、4、3畳)の小さな草庵でしたがここに、足掛け22年、2人の
弟子と3人で生活していたのでした。庵ができた時の嬉しさや、その後の生活
などは「もしお草」に書かれています。
露の身にあまりてけふはうれしさの
おき所なき草の庵かな
かりそめの草の庵りもことの葉の
花さく宿となるぞ嬉しさ
この不求庵も、貞心尼亡き後の明治30年日の屋火事で焼失してしまい、今は
何も残っておらず「貞心尼不求庵跡」と言う標柱と案内板のみです。柏崎は風が
強く、度々大火があったので防火対策の一つとして道を切り開き、火防線小路
が作られました。貞心尼も歩いたのであろう昔からの小路が現在も沢山残っています。
海を愛した貞心尼の過ごした町〞かしわざき〞歌碑も12基建っています。
是非足を運んで見ていただければ幸いに存じます。